ピピピピピの爽やかな日記帳

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ピピピピピの爽やかな日記帳

親の経営コンサル会社で働く20代後半、社内ニートの話

ピピピピピの爽やかな日記帳

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恋愛において「告白」は、非モテの最終手段 一種の迷惑行為になることすらありえる

自己主張

 非モテの告白を、「生ゴミの叩き売り」と表現した女友達がいるのだけれど、やはり純愛だけではどうにもならない。

「非モテの自滅」「非モテの玉砕」「非モテの自傷」などに名称変更すべき

 恋愛のイロハを学習して来なかった人々が、一足飛びに女を捕獲しようとする際に使うのが、「告白」という投げ縄である。

 告白は、非モテの象徴的行為であり、自信のなさの表れなのだ。

 僕は以前ナンパ中毒患者だったから、あけっぴろげに本音を語り合える女友達(21~28歳)が複数人いる。
 そんな彼女たちに、「告白」についての所感を教えて貰ったため、下記にまとめておく。

告白に対する、女の偽らざる気持ち

・フるのも一仕事だから、よっぽど出来映えの良いメンズじゃないと困る。
 しかも非モテに限って、熱量たっぷりに自分語りを開始し、「あの時はこれこれこうで楽しかった。あんなこともあった、こんなこともあった。だから大好き」と出し抜けに夏休みの絵日記の発表会みたいなことをされて、断りにくくなるしうざい。
 そういう妄想の総集編を乱発されると、へどもどする。

 

・告白は失恋の伏線 秒速で回収される伏線 フラれること前提のお戯れ
 男が告白したくなった時点で、追いかける恋愛になっているから、ぐうイケメンとかFX成金とか、目を惹くモテ男要素がないなら、鬼引きしてしまう。
 非モテの告白文、遺書に似たり

 

・真剣に想いを口にされただけでは、「ピュアで素敵!」なんて甘い気持ちにはならない
 誠実さはこっちが見出すものだから、純粋速報みたいな一方向の押し売りは辞めて欲しい。

 

・告白はとどめを刺すようなもの
 既に、自分のことを好きになってくれている相手へのリップサービス
 女が男を誘惑している状態ならば、告白は喜ばれる善の行為になる。

 

・関係が深まっていないのに告白するのは、「絶望的にモテません」と宣言しているも一緒
 在庫を売り切るために不法侵入する悪徳営業マンみたいだし、もはや「精神的暴力」に感じることもある。
 日常的な生き様で口説けない非モテは、告白という飛び道具で、女を仕留めようとする。

 

・告白を断る練習が必要なくらいに、女は告白される
「逆恨みされるの怖いよね」「ストーカー化しそうじゃない?」「好きな人いる設定でフるのが王道?」といったガールズトークをして、男あしらいにまつわる情報共有をしているほど。
 かいつまんで言えば、迷惑行為に相当する告白が多々あるということ。

 このように女は、告白されて喜ぶよりも、しかめっ面を作った回数のほうが遙かに上回っている。

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大半の女は、告白され疲れしている

 告白する側の非モテは、一世一代の突撃くらいの特別感を持っている場合が多いけれど、女からすると、聞き飽きた恋の文句を聞かされる苦痛の時間、と考えていたりする。

 であるから、告白という一大イベントを設けて口説き落とそうとするのではなく、日常の所作によって、自分にしかない長所を浮き彫りにしたり、本質を直視して貰えるように気を配ったりと、エピファニー的な行動を取ることのほうが何より大事なのだ。

 神は細部に宿る、ではないけれど、普段の他愛ない会話や、当たり障りないデートの中で女をその気にさせられないのであれば、急に大きな恋情で殴り付ける「告白」という乱暴を働いたところで、「いえっさー!」と承諾して貰うことは到底出来やしない。

 しつこく告白を繰り返して強引に頷かせる男もいるが、それはアドルフ・ヒトラーのように邪悪な力で相手をねじ伏せ、「はいるひっとらー!」と服従させてしまうようなものだ。

 つまり下手くそな告白は、加害行為に等しいのである。 

それでも告白がしたいなら、人並み以上の武器を見せつけて一点突破するしかない

「好きです。あー、えーと、あと関係ないですが、最近はミリオンダラーくんと呼ばれています。一応、億万長者なんでね(おもむろに通帳を提示)」
「付き合ってくれませんか? 僕は一応、御曹司ですがそういうのは気にしないで下さい。本当に好きなんです。一生食うには困らないレベルの資産がありますが、そんなことは今どうだって良いんですよ。数え切れないほどのお金は死蔵してあります。だってそんなものよりも、あなたのことが好きだから」

 結婚する気のない遊びの恋愛だとしても、女は貴き時間を差し出すことになる訳だから、利点なき男とは付き合わない。

色恋において、返報性のルールは適用されない

 非モテが自己を犠牲にして、持ちうる力の全てを好きなあの子に注ごうと、「なんですって!? わたしを好きですって!? マジキモいんですけど。おまえみたいなブサメンと遊ぶくらいなら、人面瘡とチューしたい」と、言語ではらわたを抜き取られる。

 成就しない純愛は、美しさとは対極なものだ。

 非モテの告白は究極のおねだりであり、「ちょーだい! ちょーだい! 好きをちょーだい!」とゾンビのように詰め寄る行為だから、一方的な恋愛感情のバイオハザードなのである。

 嫌いな男が抱く恋心は、女からすれば脅威。

 善良な非モテでも、女に好意を向けた瞬間に、「怖い……」と戦慄されてしまうことがある訳だけれど、それはなぜかといえば、ちょーだいブサイクというクリーチャーとしか思われていないからだ。

 そして、「優しさと純粋さは誰にも負けません!」と自負している男は地雷率が高く、というのもそれは非モテの自己完結ストーリーに過ぎず、女の考える人間的に素敵な人の枠に入っていないことが多いからだ。

 たとえば女が躓いたときに男が優しさを発揮して手を差し出そうが、苦手なタイプであると判断されている場合は、セクハラに該当してしまう。

 つまり優しさと純粋さはどこまでも主観的なものだから、そんなものを武器にしようとしている男は、自分勝手な厄介者である確率が極めて高い。
 そういう尊大な輩は、「なんでこんなに優しさと愛情を届けているのに、あいつは俺を無視するんだ。俺の頑張りを返せ」と被害者意識を募らせ、豪華絢爛な憎悪感情を迸らせて、ぴちゃっぴちゃっ……と天井を這いずる腐敗した化け物のごとく、狂ったベロを垂らし、何をしでかすか分からないモンスターと化す。

 一般常識は、恋愛の非常識でもある。

雑記・IFビッチ女の戯れ言について

 良くマンガ作品とかで、「○○くんのこと好きだったんだよ。もしもね、もしも、あのとき告白してくれてたら付き合ってたのに」とかいう、IFビッチが登場するけれど、それは舌先三寸のネタに過ぎない。

 おそらく過去に戻って、そのクソ女に告白したら、普通にフラれる。

「タイムリープしてきたぞっっ!! 俺のこと好きなんだろ!?」と詰め寄ったら、後日、屈強な彼氏が登場してみぞおちに拳をめり込まれ、財布をパクられて、絶命するだろう。

 女がする過去の話は、大概適当なのである。
 過去をねつ造して、それを美しい口語作品として提示し、今をドキドキして楽しもうという魂胆がある。

 これは女のリップサービスって奴だ――と見せ掛けてそれは、女自身が気持ち良くなるためのものだ。

 どういうことかというと、たとえば他に例を出すと、「○○くんは、実は凄いモテたんだよ。わたしも好きだったくらい! 知ってた?」と嬉しくなる報告をされた経験のある男って六割は超えていると思うが、なぜ女がこんなことを口にするかというと、男を有頂天にすることによって、褒めて貰おうとするためである。

 つまり、女が「可愛い~~~!」を連発するときは、自分を可愛いといって欲しいからという心理に通ずるものがある。

 一つ言えることは、どんなにクールぶっている男でも、自分が周囲の女からどんな評価をされているかは敏感に察するものだから、重度のKYを除けば、自分が気付かないところでモテているなんてことはありえない。

 それよりなにより、「実はモテていた。わたしも好きだった!」という暴露をぶっ込んでくる猿みたいな女には、その感情を我慢したまま生き続けられるほどの忍耐力は備わっちゃいないだろう。

 僕は以前、この辺のことを女友達に詰問してみたことがあるんだけれど、笑って濁されたから、図星だったのだろう。

 しかしながら、女の口にするこうしたほら話は、何にも代えがたいくらいにありがたい。
 たとえ嘘っぽくても、気分が舞い上がるからだ。
 であるから年がら年中、ポジティブな嘘をついて欲しい。

 可愛い子は、その道40年のカウンセラーを超えるほどに、男の心を豊かにする。

雑記・読んだ本1

マインド・コントロールとは何か

マインド・コントロールとは何か

 

あらゆる自然や社会の現象は、原因があって結果が起こる。結果が先に来ることはない。しかし、人は多くの場合、原因を知らずに、先に結果を知ることが多い。そして結果を観察することから、原因や責任の所在を推論する。その過程を社会心理学の用語では帰属過程という。

 このように書いているが、非モテが女にフラれるときもそうで、明確な原因を掴めていないからこそ、「失言があったのかな?」などと考えてしまうものだが、往々にして告白そのものがミスであることが多い。

 告白を実行すると、関係性の進退をいったん締め切ることになる。
 これから恋心を育めたかもしれないのに、その未来を閉ざしてしまう可能性があるのだ。

 ゆえに告白なんていう玉砕行為をするのは辞めて、デートを重ねて手を繋いだり、終電を逃して遊ぶことを第一目標とすれば良い。
 そうすればある日、手を出そうとしたときに、「ちょっと待って。ちゃんと責任取って付き合ってくれる?」とかなんとか言ってくれるかもしれない。

 もしも自然消滅する悲しい結末が訪れたとしても、魂を入れた告白をしてフラれるよりはダメージが少ないから、すぐに立ち直って新たな恋愛競争へ突入可能だ。

 失恋した直後の非モテは、フラれたという結果を鑑みて、「デートコースが悪かったか?」「女に車道側を歩かせたからか?」「店のチョイスミス?」と細かな行動について反省し始めたりする訳だが、大体の場合、理由はそんなことではない。

 遅刻しようが、車道側を歩かせようが、成功するときはするものであり、フラれるということは最初から女が、眼中にないけれど社交辞令としてデートしていたか、断るのが下手だからずるずる遊んでしまっていたか、他にめぼしい男を見つけ出したかのどれかに該当することが度々ある。

 そんなときに、男が告白という関係を断ち切るためのきっかけ作りをしてくれたから、「ごめんなさい(解放された! やったぜ!)」と飛び上がらんほどに歓喜して女はフるという訳だ。

 女の束縛を解く効果があると考えるならば、告白も悪いものではないかもしれない。

 時折、「フるなら早くしてくれよ。時間が無駄になったろうが!」と後になってから女を白眼視している男がいるけれど、早期に突き放してしまえば、高飛車な女呼ばわりされたり、「え、なんで、なんで? 俺なにした?」と必死の形相で理由を問いただそうとしてくる男が現れたりするから、単なるフるという行為は女にとって、実はタイミング良く効果的にやるのが難しいことなのである。

 だから無難なのは、「ずっと片思いだった人とお付き合いできることになりました。この恋を大事にしたいので、もう連絡は取れなくなると思います。ごめんなさい」と隙のない突き放しをして、着信拒否をすることかなと思う。

雑記・読んだ本2

無責任の構造 モラル・ハザードへの知的戦略 (PHP新書)

無責任の構造 モラル・ハザードへの知的戦略 (PHP新書)

 

不本意ながら、従っているうちに、やがて、従っている不本意な行為の背景にある価値観を、自分の価値観として獲得してしまうことがある。それが内面化である。

 こういう風に書いているが、ここで一つ僕の偏見を披露するなら、非モテが口にする、「貧乳、好きです!」「可愛い子より素朴な子が好き」「顔はそんなに気にしない」といった発言は、大方、でたらめだ。

 己の社会的レベルが低いことで、高次元の女は入手不可能と考えてしまうため、無意識にそこから遠ざかった理想を持つようになっただけなのだ。
 潜在意識による妥協と呼ぶべきかは分からないが、手に入る確立が極端に低いものを得ようとするのは精神的な負荷が掛かり過ぎるから、そうならないように自動調整された結果なのである。

 一言で言うなら、ブス好きの非モテは、自己洗脳の天才であり、内向きなペテン師である可能性が高いということだ。

 非モテのブサイクと非モテのブスが結ばれるのは、十中八九、防衛機制によるものであり、「俺が美人と付き合える訳ねぇだろ。このブスが妥当」「私が美男と付き合える訳ねぇわ。このブサイクが至当」と心奥で合理化した結果である。

 言ってしまえば、正常な自己認識からの駆け落ちだ。

 とはいってもそれは悪いことではなく、恋愛そのものが錯覚であり妄想だと考えられるから、二人で幸福になるために互いの恋心的な理想を歪ませて、いっせーので愛欲に溺れられるならば、それは素晴らしい。

 しかし問題なのは、男という存在は往々にして歳を重ねるごとに社会的地位が向上し、自己肯定感の度合いが強まることにより、封印されていた真の理想が、意識下へ顔を出すようになってしまうことだ。

 全ての美点を塗りつぶすレベルのブサイクであれば、そうした心理変化はよっぽどのこと(百万長者になったり、売れっ子芸人になるなど)がなければ起きないが、今まで怯えながら生きてきたそこそこイケメンの男なんかであれば、豹変確立は凄まじく高い。
 つまり自己肯定感と防衛機制は密接な関係があり、社会的な強さを得るたびに、大きく心変わりするものなのだ。

 だから男は、中年になってから浮気や不倫に走るものが後を絶たない。
 若い頃は恵まれなかったが、一途に会社に尽くして来たおかげで大出世し、「ずっと今まで心的に牢獄に閉じ込められていたけれど、やっと自由の身だ! 伸び伸びと生きるんだ!」と考え始めるからだ。

 僕が思うに、世の中に本当の意味で誠実な存在なんて、ただの一人もいない。

 純粋に一人を愛する素敵と評される人もいるけれど、そんなものは、そうした心理状態がたまたま今この瞬間まで継続しているだけに過ぎず、環境の変化によっていつ一変するか分からない脆いものだ。

 まとめると、非モテに関わらず、全ての人間の真心なんてのは、非情に不安定なものということである。

雑記の中の雑記

 それと数人に、「ピピピは、非モテのフリをして客寄せしている」といった類いのことを言われたのだが、金曜の夜にこんな長文を投稿する人間がモテるはずもなく、実際にモテないからこそ、こういう文章を書いて鬱憤を晴らしているのである。

 一つ言えることは、モテるはてなブロガーなど壊滅的にいない。

 収益100万円ブロガーなど、一線を越えるレベルの人たちはアイドル扱いされるから別にすれば、どいつもこいつも五十歩百歩。

 文章を沢山書いて思考慣れしてくると、女の口説き方まで論理的に説明出来る気がしてしまうために、自称モテ男はごろごろいるけれど、それは即興の武勇伝職人みたいなもので、作り話の名人なだけである。

 はてなブログは、非モテの吹き溜まりと考えると良いだろう。

30歳目前になって痛感する、心身の絶望的な衰えについて 腐りゆく人体・精神・魂

自己主張

 どんどん老いぼれる僕の身に起こる老化現象や、生き方の変化について記入します。

目に見えてスタミナが減った

 階段を駆け上がると、呼吸が荒くなり、目眩に襲われて、視界が真っ黒になる。

 その上、距離感覚も掴めなくなってきているのか、階段でつまずき、ズダダダダっと、人間雪崩のごとく階下まで転げ落ちることすらある。
 疲労困憊してしまったときなんかは、起き上がらず天井を見つめ、「これが人生かよ……」と嘆き節を反復する。

 こんな風な憂鬱なミスを犯さぬよう最近は、「よいしょっよいしょっ」と、老婆のように手すりを掴みながら、慎重に階上を目指すようになった。

 もはや自宅登山であるし、滑り防止に、室内でも運動靴を履くことを検討している。

腹を抱えて笑う機会が減った

「ふふっ」「へへっ」「ははっ」

 こうした舐め腐った失笑みたいな、そういう良からぬ笑い方をするようになってしまった。
 昔はお笑い番組を観るたびに、涙を流しながら腹を抱え、床を叩いてへこませるほどの呵々大笑をしていたが、今やそんな噴火的な爆笑は皆無。

「ピピピくんは、目が笑っていないね」と指を差されるようになった。

目の下のクマが酷くなった

 PC作業に取り組んでから鏡に目をやると、鏡面に「たれぱんだ」が映っている。

 歳を重ねるごとに眼輪筋が衰えていったのか、まぶたは下がり、目の下の皮膚がくぼみ、爽やかさが失われた。

 いずれ信頼の置けるクリニックで、ヒアルロン酸やレーザーによる改良をお願いしたいくらいに、疲れ顔が出来上がってしまった。

 髪質とか肌質よりも、眼球周りの状態によって、見た目年齢は決まると思われる。
 僕は学生時代からずっと、中性的な童顔であると言われていたが、クマが深刻になってからは年相応の動物に見られるようになった。

 言わば、汚れを知った大人の顔である。

美容に対しての想いが薄らいだ

 たとえば金・土・日と、不運にもスケジュール帳が真っ白になってしまった場合などは、金曜の夜から月曜の朝までお風呂に入らないことがしばしばある。

 若い頃は潔癖症なくらいに、朝からシャワーに入り、夜は半身浴をして、たっぷりと化粧水・乳液をつけ、常温保存してある食塩無添加のトマトジュース(900g)を一気飲みして、内外から美しくなろうとする努力を怠らなかった。
 サプリメントの有効な組み合わせを考えたり、ケミカルピーリングや光治療をして貰って赤ちゃん肌を目指していた。

 藤原紀香みたいな生き様がそこにあった。

 なのにアラサーに落ちぶれた今となっては、「シャンプーやリンスなんて週1、顔も水洗いで十分。栄養? 楽しく生きることが究極の栄養素なんだから、神経質に考える必要はない」と開き直るようになった。

 ストレスと共に分泌してしまう活性酸素だけに気をつけて生きていれば、肌が荒れたり、禿げたり、唇がパサついたりする危険性が減ってゆく。

 一つ分かったのは、心から美容を楽しんでいる人は綺麗になるが、「美しくならないと……」と追い詰められている人は、いくら金を注ぎ込もうが、逆効果を生んでしまいやすいということだ。
 であるから、適当かつ鈍感に生きられるようになったのは、良い傾向なのかなと考えている。

生存欲求が強まった

 外を歩いていると、看板が落ちてこないか、通り魔がいないか、周囲をしっかり観察しながら逃げるように歩いている。

 銀行に行くと、いつ強盗団が入ってくるか分からないから、飛び込むようにして外へ出られる窓を探しておいたり、防弾チョッキ代わりになりそうなものがないかを見つけるため、窓口に呼ばれるまで終始きょろきょろしている。

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激怒し大暴れすることが皆無になった

 怒りに駆られて椅子を持ち上げて叩きつけたり、壁に穴を開けるようなストレス解消をしなくなった。

 昔は連続でフラれたり、仕事が思うように行かないと、「うあぁぁぁぁぁ!」と雄叫びを上げて本棚の書籍を全て床に叩き落とし、机をひっくり返すような蛮行に及んでいた。

 それが今となっては、抱いた憎しみは文章化することにより、事切れることが判明したから、現実において破壊行為をしでかすことはなくなった。

 よっぽどの敵愾心が生じたとき用に、ファイティングロードという筋トレグッズ販売店で、サンドバッグとグローブを購入して設置したから、怒りのフィットネス化を実現した。
 苛立ちが収まらないときは、金属バッドでフルスイングしたり、皮膚が爛れるほどに殴り続けていれば、気付くと上機嫌になっている。

 メンタルコントロール力が、少々磨かれたということだろう。

露悪趣味の傾向が強靱化された

「ピピピはろくでもない」「ピピピは出来損ない」「ピピピは人間的に劣っている」「ピピピの文章は修飾過多で劣悪」「ピピピはブロガーの中でベスト3に入るレベルで嫌い」

 ありきたりな褒め言葉を貰うよりも、上のような罵倒を浴びせられた方が、心は温まる。
 それもあって無意識に、他人の悪意を引き出し吸収するための言動をすることが増えた。

 これはなぜかといえば、「普通の大人になりたくない」というセンチメントさが濃くなったせいであると思われる。

 大衆に埋没してしまうことの恐れ、このまま老化・老衰と名付けられたクライマックスへ向けて、急降下するのだけは避けようとする全身全霊の抗いなのだろう。
 しかしながら同時、「自分は特別な存在なんかじゃない」ことを嫌々ながらも悟らざるを得ない時期になって来ているからこそ、現実逃避と自己破壊願望が組み合わさってしまい、それが露悪趣味のレベルを壮絶な速度で底上げすることになっているのだ。

 絶対的に止まらない時間の流れ、という強者に支配されているため、ルサンチマンを発症せざるを得ないのである。

 要はストレス解消であり、僕の露悪趣味は、アンチエイジングなのだ。

お笑い番組よりも、文化人のトーク番組を好むようになった

 ただ笑うのではなく、知的好奇心も同時に満たしたい。

 松本人志のラジオや、ブラマヨ吉田の出演番組など、キャラではなく喋りの質で見せつけてくれるものであれば、僕もその技術を盗んで日常で利用出来るから、いくらでも視聴したいのだが、見た目重視、キャラゴリ押しの芸人は見るに値しないと決めつけてしまう。

 どうせ笑うのであれば、明日に繋がる何かを得られる笑い方がしたいと、合理的に考えるようになったのだ。

自分が特別な人間でないということを受け入れてしまった

 取るに足らないありきたりなクズであることを悟った。

 26歳くらいまでは、「僕は神に愛されている存在であり、無限の快楽を享受する権利がある」などと気恥ずかしい夢物語を真顔で空想していたのだが、今となっては現実を直視するようになってしまい、希望が廃れた。

 理想は実現せず、どこまでも平坦な道を歩かされるのが人生であり、起伏が生じるのは現実逃避の妄想と内部感情のみであり、「ありのままの日常を寿命が尽きるまで歩かされるのだろうな」と厭世的な気分にやられるようになってきた。

 退屈という大病に罹患してしまった。

 そのため、腐敗した政治家や、賭け事で人生を破滅させる者、バックストリートで黒い生き方をする人々に心の底から共感するようになった。

 大人げなさ、気の狂い、自虐的行動に打って出ないと、マンネリという病魔に心身を侵食されて、朽ち果ててしまう。
 乙武、川谷絵音、浜田雅功など、恵まれた人生にも関わらず、不倫をやり遂げる天才たちの気持ちが痛いほど良く分かる。

 強大な退屈さ=虚無感であり、それを抱いている時間は死んでいるも同じだから、たとえ身の破滅を招くとしても、脳のネジを跳ね飛ばして踊り狂わなきゃどうしようもない、そうした辛抱ならない精神状態が存在する。

 綺麗に生きることが、人類に取って究極の拷問だと思い始めた。

父と母に感謝出来るようになった

 過去に血みどろの決闘や、縁切りトラブルがあったことによって、顔を見るだけで気分を害していたこともあるのだけれど、僕自身が落伍者というか、負け犬の大人になったことで、親に差し向けていた憎悪は自分勝手なものでしかなかった、と気づいたのだ。

 自分が生きて行くだけでも無理難題の事件が勃発して、詰み掛かることがあるのに、三人も同時に育て上げるというのは、並大抵の想いじゃ実現不可能なことである。

 若い頃はツラの皮だけを見て判断し、「余力があるのに子を雑に育てた悪人」という一方的な評価を下していた訳だが、実際のところ、親は多忙な職業人であった訳だし、日々、心理エネルギーが枯渇しているがために、負の教育しか施せなかっただけなのだ。

 だから親が悪いというより、親を取り巻いていた目に見えぬ複数の原因のせいなのである。

 そうした気づきを得られたことにより心からの和解を果たし、月に数度の外食をしたり、観光へ行ったり、愛犬の散歩をしたりと、仮面的ではない本心が浮き出る家族交流の機会が倍増した。

 考えることは救いをもたらす行為なのだと、知った。

どんな人間の葬式にも参列しないという決意が増強された

 父さん母さん爺ちゃん婆ちゃん。
 他に兄妹や親友、取引先の人まで含めて、お亡くなりになっても、僕はその悲しい事実について我関せずの態度を貫くと心に決めている。

 幼少時代の親戚付き合いにおいて、激烈に気を悪くした思い出が幾度もあるからだ。

 それに僕は、誰かがこの世から抹消されるのって、大して衝撃的な出来事でもなく、いつかは自分も消えゆく運命なのだから、「旅に出たの? そうなんだ」の一言で終わらせて良い事柄だと思っている。

 この辺の死生観は絶対に譲りたくないから、どんなに社会的評価を下げられたとしても、葬式には参加しない。

女子を獲得する努力を怠るようになってしまった

 デートというのは、結末の分かりきった平凡な小説を読むようなもので、見返りの少ない娯楽である。

 少しずつ相手との距離感を縮め、高揚感が増してゆく、胸の躍る恋愛感覚は喜びをもたらすけれども、それは成功した場合のみだ。

 恋心は水物だから、多大なる時間と労力を注ぎ込んだとしても、唐突に冷めてしまい、その瞬間に今までの投資が、全くの無駄になってしまうなんてことは枚挙に暇がない。

 こちらの心が冷え切って終わる恋ならば、損害は少ないけれども、熱病じみた愛の告白をしたのに、「あなたのこと嫌い。奢ってくれるから利用していただけなのよ?」と、にべもなくフラれると、ショックで寝込んでしまい、過去だけでなく未来の一部も捨ててしまいかねない。

 そしてリスク勘案の結果、女の子を追い求めることを引退するという結論が導かれ、安心安全に自分の心を震わせるコンテンツ(アニメ、マンガ、ゲーム)に走り出すのであった。

若者が怖いと思うようになった

 先輩を「くん付け」で呼ぶのが流行っていることすら、最近知った。

 新入社員なのに、古株役員を見掛けると、「おはようございます。ピピピくん」と大学サークル感覚で挨拶をする。
 気合いの入った若手だと、「社長くん」「部長くん」「雑務くん」と呼びつけるつわものもいるようだ。

 若者文化のイノベーション速度は物凄まじく、僕ら大人が固定概念に目を奪われているうちに、まったく別物の常識が育まれている。
 そういう経緯があることによって、プライベートで話しかけることに恐れを感じるようになった。

 あることないこと邪推してしまい、下手な発言をすると瞬く間に寒いおっさん認定をされてしまい、世代間の溝を深め、よりコミュニケーションが難解になるのではないかと考えてしまうのだ。

 そして彼ら若手は、中途半端な大人が大嫌いである。
 ネタにするほど特徴もない、尊敬するほどスタイリッシュでもない。
 そんな大人を見下し、「かわいそうなおっさんだな」「だな、あいつみたいな哀愁漂った年寄りにはなりたくないよな」「もはや笑えないもんな」と陰口を叩き、絶対になってはならないオヤジリストに名前を書き込む。

 こうした敵対思考というか、自己中心的な反面教師の作成は、僕自身も過去にやり続けていたことであるから、致し方ないことだ。
 若者はどうしたって、大人への攻撃性を緩められないものなのだ。

 それゆえに、若者への敵意が強大化した

 老害力を鍛えて、叩きのめす方針を固めた。

犬だけが信用に値すると思うようになった

 愛犬のダックスフンドだけが、僕の全てだ。

雑記・最近読んだ本

人はなぜ憎しみを抱くのか (集英社新書)

人はなぜ憎しみを抱くのか (集英社新書)

 

「見せかけ」だけが、世間では現実になっているのです。

 このように書いている訳だが、大人になればなるほど、世間のしがらみに苦悩し、気付けば嘘八百の人生を生きてしまうものだ。

 そして大人の人生というのは、老化現象のトーナメントみたいなもので、誰が先に老けるかの競争をする追っかけっこである。

 僕も既に実感しているが、人は体よりも心から腐ってゆく。

 これはなぜかといえば、いつからか世間の固定概念をなぞるようになってしまい、本音を抑圧して、必要以上に神経を尖らせ、他人に白い目を向けられないようにするためだけに生き始めてしまうからだ。
 毎日毎日、自分に嘘の暗示をして、自分ではない自分になってしまうため、次第に心を病み、壊れてゆく。

 それゆえに、気が狂ったように本音をぶちまけて生きている若者を見ると、嫉妬が加速し、烈火の如く怒る大人が大勢いるのだ。

家庭内ヨイショをしなくてはならない子供たちの話 家族という牢獄の囚人

自己主張

僕は、今の親に育てられたくなかった

「あなたが本当にパパやママを嫌いなら、施設で暮らすことも出来るのよ? あなたの一度きりの幼少時代を、あなた自身で決定しなさい」

 そんな逃げ道があれば、僕は迷わず利用しただろう。

 親から受け継いだ遺伝子が悪くなかったため、生活困難者にならずに済んだけれど、教育方法が劣悪だったため、人間的魅力を引き算されるように飼育された。
 人道を無視してぶっちゃけると、親不在で育った方が、僕はよりまともな人間になっていたと思われる。

 幼い頃の僕にとって親は、悪質で有害なモンスター以外の何者でもなかった。

「ピピピ家にだけは生まれたくなかった」が口癖であった。

 結果論としては、現時点における幸福度が高いから、「産んでくれてありがとう」と本心で思うのだけれど、正直な話、育てて貰ったことそのものに対しての感謝は薄い。
 総合的な見方をするとありがとうの気持ちで胸が一杯になるけれども、育成方針だとか、親に掛けられた言葉とか、そうした個別部分を取り出して評価すると、悪性の家庭だったと思わずにはいられない。

「育てて欲しくはなかったけれど、産んでくれて本当にありがとう」

 これが僕の、正真正銘の想いである。

 だからこそ大人になって対等になった今、劣悪な親子関係という鎖を外されて、一人の人間として接することが出来るようになったから、すこぶる仲が良くなったのだと思われる。

 僕の親は、有能な経営者であり、面白くて尊敬出来る存在ではあるのだけれど、子を育てる親という評価をするなら、首切りご免の0点であった。

 あの頃の僕は、「二人とも交通事故で他界してくれないかな」と毎日願っていた。

 画用紙を買ってきて、紙人形を作り、その裏表に真っ赤な油性ペンで罵詈雑言を書き殴り続けて、赤いちゃんちゃんこを着せてあげるという呪いも実践した。
 自宅に僕一人だったときは、油性塗料を大量に垂れ流して、号泣しつつ素手で直接塗りつけていたこともあるのだが、窓を閉め切っていて匂いが充満したせいなのか、神経が衰弱し、尖らせ過ぎた憎悪に異常が生じて変形したからなのかは分からないが、腹がはち切れんばかりに愉快な笑いが止まらなくなって、気が狂ってしまったこともある。

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親の絶対的権力に怯え、ヨイショすることで生き延びようとした

「親に世話になっているジャリガキが刃向かうな!」

 尊大な言い様をした父が詰め寄ってきて、僕の頭部を鷲づかみにするや否や、平手打ちを数発叩き込み、それから頭突き、肘打ち、膝蹴り、足払い、そして極めつけは丸めた新聞での百叩きを繰り出し、僕を沈めた。

 今思い返せば、どの打撃も緩やかで、僕という生命体を破壊する目的がなかったことは分かるのだが、たとえ手抜きだとしても一方的な暴力がそこに存在すると、逆らう意欲が低下してしまうものだ。

 僕は次第に内向的になり、家庭内の君主である父と母の感情を逆撫でることのないよう、繊細な行動をし続けた。
 つまり、生存目的でヨイショするというプロチャイルドが誕生してしまったのだ。
 スマートに表現するならば、忍び人としての生き様がスタートした。

 それもあって、幼き僕の尊敬する人物は、『チャイルド・プレイ』という作品に登場する邪悪な人形・チャッキーであった。

 冷め切った家族だった。

 弟が階段(20段)で足を踏み外して、「あぁあ、うぁぁ、ぐうぁぁっっ!」と転がり落ちて、「ぁぁ……助けて……」と救いを求めて呻いたときも、父と母は多忙ゆえに、「怪我はない。そんなことで泣くんじゃない。情けのない顔。腑抜けが」と吐き捨て、去って行った。
 僕は狼狽えながらも、弟を置き去りにして逃走した。
 背後では、「うあぁぁあ~~~~~~!」という断末魔の叫びが上がっていた。
 あの階段を上ると、今でも、弟が落とした魂の嘆きが微かに聞こえてくる。

 このように、子供の気持ちが軽んじられる家庭だった。

 とりわけ父の血管がぶち切れると一大事が起き、みぞおちに鉄拳を入れられ、体が跳ね上がり、もう一発背中へ肘をぶち込まれ、勢いづいたまま床に体がめり込んで、「ぐあぁ……」と嗚咽を漏らすことが日常茶飯事であった。
 それを見た弟は笑い、妹は恐れ、母はけたたましく笑う。

 憎み合い、貶し合い、つぶし合いを実行する、内部争いの絶えない家庭であった。
 そうした血縁戦争の中で僕は、父や母の猛攻撃を受け流す方法を編み出した。

 受け身の技術というか、攻撃をモロに受けて苦悶しているかのように、父に錯覚させながら痛みを分散し、「ギャ――――!」と適切な頃合いに叫ぶ演技を入れることで、完膚なきまでにしつけされた感を見せつけるのだ。

 家庭内ヨイショをする子供という職業は大変である。
 殴られ屋までしなくてはならない。

 古い親たちは、体罰主義が広がった暴走的社会の中で生きてきたから、息つく暇もなしにリアルファイトを持ちかけて来る。
 教育というよりも、痛みで分からせることで自分が満足するという、身勝手な親がごろごろいるのだ。
 ド田舎だと、鯉が生息する池に投げ込まれて、短期的な水中生活を強いられたり、猛吹雪の中、かまくらに閉じ込められたりすることがままある。
 怒りで理性が吹き飛ぶと、実の子を一瞬であれ家畜扱いしてしまうのだろう。

 親というのは、狭き空間の王者であるから、家来である子は従うことしか出来ない。
 それゆえに、ヨイショこそが、唯一の武器であり防具であったのだ。

子育て=合法の人体実験・ギャンブル

 厭な幼少期を過ごした僕は、子育てというのは、社会に賞賛される人体実験であり、政府に背中を押して貰える賭け事である、と痛感した。

 幸不幸を見据えた話ではなく、衝動――生物的発作行為のことを、出産、子育てと呼ぶ。

 これは拭いがたき宿命論であり、人類が避けて通れない巡り合わせだ。

 それゆえに、「産んで欲しくなかった」だとか、「お前を産みたくなかった」という、たわけた発言にろくな効力はなく、命が生じるというのは、悪感情の発生も含めて、人間社会の絶対原理、不変の真理なのである。

人間界は、人間という個の幸不幸や善悪を考慮せず、繁殖繁栄という目標へ突き進む

 人間界は、進歩進化の道から外れることを許さない。

『最大多数の最大幸福』だとか『優性哲学』だとか種々雑多な、人間の歩むべき道を説いた話が至る所に転がっている訳だが、僕が考えるに人間という生物は、もっと大いなる力に揺り動かされている操り人形だ。

 宇宙にいる高次元生命体が、人間を無から生み出して観察しているといった、インテリジェントデザイン説なるものがあるけれど、ここまで奇妙奇天烈な発想は大袈裟にしても、人間は、己が意識可能な範疇とは別に存在する、動機のダイナミズムによって半ばコントロールされている。

 究極の話、善悪とか幸不幸なんてものは、ミクロである個人に取っては重大だけれど、人間界というマクロのレベルになると無意味というか、考えるべき事柄から外されてしまう。

 つまり人間界という大きな単位は、一人の人間という小さな単位に対して味方することはなく、巨大な規模としてのパワーを蓄積することだけをひたすらに考えているから、とある家庭に子供が誕生するというイベントに対して、感謝も喜びもなく、ただただ当たり前のこととして処理される。
 こうした一つ一つの物語を度外視にした無慈悲な出産こそが、人間界の定めなのであって、小さな単位である僕たちは、そうした繁栄が絶対正義という主目的に向かって、無意識に、奴隷のように走らされている。

 そうした無血の感覚、冷酷非道さを借りて口にするならば、「親の器がないのに産むな」「もっと優秀な子が誕生して欲しかった」という後付けの文句や、「育てる自信がないなら子作りは辞めましょう」といった警告は、一切の意味を持たない。
 なぜなら人間は、人間界の意図に突き動かされているだけだからだ。
 幸福も愛情も二次的なものでしかない。

 だからもしも、「なんで頼んでもねぇのに産んだ?」と子供が悪言を垂れてきたら、「これは人間界の問題だから。ミクロであるわたしに言わないでくれる? ミクロ界のミクロの分際で」と返答すると良いだろう。

 そもそも親が存在するのは、日本があるから、地球があるから、宇宙があるから、銀河系があるからであって、ミクロ単体の功績じゃない。

 厳しいことをいえば、人間界というのは、進化のためになるならば不幸せな人を救うけれども、発展性がないと踏んだ場合は、見て見ぬ振りをする、もしくは淘汰する方針を取っていると思われる。
 それゆえに、絶望的な存在が多い日本社会も、弱者を救うメリットが少ないとなれば、彼らが救われることはないだろう。

 人間界というマクロは、どこまでも冷酷非道なのである。

 これは人間という種が栄えるための歩みであり、人間界という大きな単位に善悪の概念は適用されず、そうした無感情で戦略的な繁殖意識みたいなものが、僕たちに流し込まれて、気づけば結婚している、気づけば出産している、気づけば子育てしている、といった未来が訪れるように出来ているのだろう。

 不幸な家庭なんてのは知ったこっちゃないのが、人間界というものなのだ。

 それでも僕たちは、人間界という牢獄で生き続けなくてはならない。
 不運な操り人形のように。

雑記・読んだ本

快楽主義の哲学 (文春文庫)

快楽主義の哲学 (文春文庫)

 

ジイドの詩的な文章のとおり、人類が快楽のために生まれてきたということは、この美しい自然を見ればすぐわかります。動物や植物は、無心に快楽を求め、無心に楽しんでいるではありませんか。

 これは僕がとても好きな本であり、上記のように書いている訳だが、恨み辛みなど負の感情も含めて、それは花が咲き誇る、鳥が羽ばたく、虹が架かるのと一緒で、自然的な現象の範疇だから、全てを受け入れて遊び狂うことのみが、人間の価値だ。

 そう強く思うからこそ僕は、通常は胸の奥に閉まっておくべき本音も、少々の調理はしながらも平気で口にする生き方をしたい。

人々に負担を強いる共同幻想について

 今回の家庭内問題に関しても、子が親を選べないように、親が子を選べないのだから、親子関係上の不具合が頻出するのは当たり前のことだ。

 どう考えても至極当然のことなのだが、この至極当然のことを、己の経験を絡めて感情たっぷりに語ると、「親を大切に出来ない親不孝のクズ」「子育てする資格のないゴミ親」と世間に罵られ、関わっちゃならない危険人物というレッテルを貼られることすらある。

 とどのつまり、どの親も子も、苦しいという事実を飲み込み、心の消化器官を利用して自力で解消することを強いられる社会になっている。
 作り物の父性愛なり母性愛なりを、世間に掲げることでやっと、一人前の人間として認めて貰える。

 そのアクションを起こさずにピーチクパーチクと、己の所属する家庭に潜む悪意や事件を、事実のままに偽りなく語っただけで、非常識な人間の烙印を押される。
 あるいは、アダルトチルドレンというカタカナを心身に突き刺され、傷だらけのメンヘラ扱いされてしまうのだ。

 本音で生きる=人間のクズ、と見なされることすらある歪な世界が、今この地上に存在する。

 親への尊敬、子への愛情、その辺を過剰な常識として押し付けられると、本音をひた隠しにして、嘘の顔を作って暮らし続けなくてはならなくなる。

 だから僕は、高度1万フィートの幸福感を墜落させないために、「育てて欲しくはなかったけれど、産んでくれて本当にありがとう」という本音を、おはようの挨拶のように口にする。

 

(チャイルド・プレイシリーズは、分かりやすい化け物が主人公であるホラー作品(13日の金曜日、テキサス・チェーンソー、エルム街の悪夢など)の中では、最も好き)

男子が「草食化」したのは、女子の「汚さ」が可視化されたから

自己主張

女は遙か昔、女神様だった

 むだ毛の処理をしていたり、足の踏み場もない塵埃だらけの生活をしていたり、優しい微笑みが作り物でしかなかったりするとは、夢にも思わない男だらけだった。

 女は光に包まれた存在であり、神々しさが眩し過ぎて直視出来やしない。
 そうした女性観――揺らぐことはないと考えられていた常識が存在した。

 しかしインターネットの普及により、突として崩れ去った。
 まるで偶像破壊のように仰々しく、女の真実が地球上に晒されることになったのだ。

 すっぴんが酷い、ヒゲも生える、足はそり跡でざらざら、涙腺を操作する、笑顔詐欺が常套手段、凄まじく劣化する、生き様がおっさんを超越する。

 つまり男たちは今までずっと、幻想に弄ばれていたのである。
 そしてネットの浸透という激烈な勢いでもって、女は天上世界から、地上へと叩きつけられた。

女神様から、人類への格下げが行われた

 殊にSNSの登場は、神の審判のようなものであり、「女は雲の上の存在として適切ではない」という決定が下りた。

 砕いて説明すると、10年前の地球という動物園には、男と老いぼれ、その他諸々の生物しか暮らしていなかった。
 女はというと、清く美しい天界にいて、対等な交流など許されない、不可侵の存在であると考えられていた。
 こうした女神様マンセーな男性的世論が脆くも崩れ去ったのが、今現在のネット社会ということだ。

 とどのつまり、光を帯びていたはずの女が精彩を欠きながら、我らが動物園・地球に墜落したのである。
 こうなると上下関係が消え去り、同一の大地上の関係になってしまう。

「なんだよ、女も所詮人間なのかよ」「しかと見ると、色々と雑でおっさんと大差ないではないか」

 きら星のような夢が、男の心から失われてしまった瞬間である。

一昔前は、本当の意味で女を知らない男が溢れていた

 10年前にも、女の生態を鮮明に描いていた映像や活字作品があった訳だけれど、結局それらはフィクションとして消化されるだけであり、そこから人間の本質を学び取ろうとする者などほとんどいなかった。

 僕が中学生だった15年くらい前は、ネット接続が庶民の当たり前にはまだなっていなかったから、常習的にパソコンをいじくっていることがバレると、「おまえ犯罪者かよ」と罵倒され、暴行を受け、青春色のあざが体中に出来て、アバンギャルドな芸術作品へと昇華した。

 自分の住まう環境以外では、学べる機会が極端に少なかったのである。
 そのため、先輩などから女についての情報を継承して貰えなければ、女=未知の生命体として不安視しつつ生きるしかなかった。

 分からないものには近づきがたく、近づきがたいからこそ、好奇心をくすぐられてしまい、見ざるを得なくなる。
 だから昭和生まれの男は、大体の女を、高嶺の花と思っていた。

 ストーキングと、遠目による覗き行為。
 こそこそと陰湿に、女神様を観察する男だらけの時代があった。

 僕が考えているカリスマ論として、お近づきになることが許されない存在ほど、狂信者を大量生産し、夢幻の偉大さを生じさせるというのがあるのだが、そこから鑑みるに、自分とかけ離れた場所にいる女ほど、物凄まじく優美に生きていると評価したくなってしまうのだと思われる。

 単純にいえば、以前の女たちは握手出来ないアイドルであった。
 目前にいるはずなのに、武道館のステージで踊り、歌っているような存在だった。
 であるから昨今、会える存在になったのは、AKBをはじめとしたアイドルだけじゃないのだ。

 全ての女が、たかだか女に成り下がり、男の心に有り難さを生じさせるパワーを欠いた。
 というよりか、女はそもそもが女神様などではなかったのだが、男に知識がなかったために、そのような馬鹿げた微笑ましいくらいの無様な勘違いが、太く長くおびただしく、継続してしまっていたということだ。

 女はずっと女だったのである。
 男が身勝手に神話じみた妄想を持ち、脳裏で膨らむ女神様に耽溺していただけの、独りよがりな気持ち悪いお話だ。

 草食系男子が増えてきたのは、男という愚かしい生物の、気味悪いラブソングが流れていた、バッドクリエイションな時代が過ぎ去ったことの証明であると考えると、良い傾向といえるのかもしれない。

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「女はパッケージが美しい福袋」と思っている男ばかりになった

 つまり、男の病的な理想である女神様が不在の、不満足な恋しか出来ない男が増えている。

 歴然たる事実として、男も女も所詮は生物だから、本能的に相手を好きになることはある訳だが、この好きの度合いが低下しているのが、今の社会情勢だ。
 そのため、経済的なことなどを考えた瞬間に、恋心が心のダストボックスに押し込まれる。

 究極に好きな気持ちは代替出来ないけれど、「好きかもなー」という鼻歌交じりの薄い恋心ならば、ゲームとかマンガに置き換えることが出来てしまう。

 端的にいうと、女から超常的なパワーが失われたのである。

 アナログの時代は、女に悪ふざけでウィンクをかまされただけで、心肺停止を引き起こすドキドキ感が芽生えた。
 今はどうかといえば、女が渾身の投げキッスを放ってこようが、浅ましいトラップを仕掛けてきた美人局としか考えられなくなっている。
 それどころか、少女マンガのイケてるヒロインの物まねをするスベり女、というレッテルが、半ば自動的に貼られる。

 昔は女の、嘘笑い、嘘泣き、嘘喜び、嘘驚き、嘘嘆き、嘘疲れ、嘘正直、嘘憂鬱、嘘悲劇、嘘返事、嘘謝罪などを、真に受ける男が腐敗するほどいた。

 しかし遂に、女はペテンにコミットした存在であることが判明してしまった。
 SNSという裁判所で、十二分な証拠が叩き出され続けている。
 インターネットにアクセスすると同時、有罪の音色が鼓膜を震わせる。

 それゆえに、たとえ可愛い子でも、優先順位を下にされることが増えてきている。

 言うなれば、女の真実化によって、男が草食化してしまったのだ。
 もっと突っ込むなら、男は妄想に恋をする生き物であり、その妄想を疎外する事柄に触れ過ぎると、現実を直視せざるを得なくなり、結果的に恋心が縮こまって、わざわざ頑張ってまで好きな子を得たいと思わなくなる。

 これは福袋のレトリックであり、そそられるけれども、中身は女神様とはほど遠いことをあらかじめ知ってしまっているから、「別にいらないや。似たり寄ったりのコンテンツは無限にあるから」と拗ねたように排除してしまうのだ。

 まとめると、最初から存在した女の本性を、やっと最近になって男が知り尽くし、戦々恐々としているのである。

 生まれたての子鹿と変わりない男を、これからも末永く宜しくお願い致します。

雑記・恋愛に、反差別思考を持ち込むフェミニストの浅はかな思考について

新版 精神分析入門 上 (角川ソフィア文庫)

新版 精神分析入門 上 (角川ソフィア文庫)

  • 作者: フロイト,岸田メル,安田徳太郎,安田一郎
  • 出版社/メーカー: 角川学芸出版
  • 発売日: 2012/03/24
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快感追求――私たちはこれをリビドー(Libido)と言っているが――はその目的物を遠慮会釈なく選ぶ。

 数年前に読んだ本であり、上記のように書いてある訳だが、根源的な異性愛の欲望というのは、見境なく荒々しいものだから、アニメの少女を愛したり、女の履いたブーツに興奮したり(記号化≒モノ化)するなど、直接的に命ある異性へと向かわなくても叶えられる、満足出来るものなのだ。
 こういう人間の傾向があるから、この世にフェティシズムというものがある訳で、たとえば二次元の住人に恋をするなんてのも、極めて人間らしく、正常なことである

 汚れの可視化した女そのものに注視すると、「嗚呼、この程度か……微妙だな」とリビドー(色情の衝動)が弱まってしまうがゆえに、それを避けるため見っともない曲がりくねった記号化の恋(女子大生だから好き、コスプレが似合うから好きなど)に走る者が増えていて、だからこそ前時代よりも異常変態が量産されているのではないか。

 僕自身も、素人型サディストと呼べるような、見下してくれる女が好きである。
 女王様は嫌いなんだけれど、女王様「風」の女が好きで、無邪気に男を虐げる子に惹かれる。

 なぜこうも、ひん曲がった嗜好を持ってしまったかといえば、やはり25歳まで彼女がいなかったのと、社会的な女の汚れの可視化が重なったことで、心が屈折しているからだろう。

 言ってしまえば、今の時代は女を、女そのものとして見ている男は少なく、ありのままを愛する恋が出来る人は少数派になって来ているのではないかと思われる。
 記号化――つまり目の前にいる女から要素を取り出す、たとえばルーズソックスを履いている女、金髪ギャルという女などのように、道徳性を無視したことを言ってしまうならば、男は女をいくらかモノ化して見ている。

 男は視覚で恋をする生き物ゆえに、致し方ないのだ。

 これは性差の話だから、そこに差別だとか、非人間的だとかいうパワーワードを持ち込んで、男の生態を一変させようとしたって、そんな無理は通らない。

 断言しておくと、男の恋の始まりは、モノを買う感覚と同じ。

 そこから次第に情が移って、本来のその子自身を見るようになって、鑑賞的な価値から、愛しさという価値に変化し、一生添い遂げることになるかもしれない。

 であるから恋愛において、差別だなんだと口にしているフェミニストは、机上の空論家であり、空回りのスペシャリストというか、本質というピースを横にどけて主張を完成させようとするから、まさに画竜点睛を欠くという言葉がふさわしい、浅はかな存在なんだよね。

 ただでさえ記号化が促進されて、今まで美しいとされていた恋愛が少なくなってきているのに、考えの足りない人々が、男女の在り方にいちゃもんをつけることによって、男女の中心により巨大なバカの壁が建設されてしまっている。
 インターネットは、見ないようにしていたものも表に出してしまったし、ズレた人々の低レベルな発言にすら拡散性を持たせてしまった。

 たとえば、大ヒットした『黒崎くんの言いなりになんてならない』という作品だって、黒崎という黒悪魔と呼ばれている超ドS男子が、女を奴隷にするような感じで物語が幕開けする訳だ。

 これが売れたのは、男女関係という事柄には、明確な常識などない、なんでもありの世界であると本能的に考える人がぎょうさんいたからである。

 以前書いたけれど、差別は青春であり、愛なんだよね。

pipipipipi-www.hatenablog.com だからフェミニストは、言語化不可能な高揚感を伴う特別の恋を経験したことがないのではないかと思う。
 恋愛的な赤ちゃんであり、恋愛的な社会を知らないから、差別だとかいう言葉のおもちゃを用いて遊ぶことで満足するしかない。
 首の据わっていない、おままごと集団なのである。

 精神分析入門の中に、『自分の好まぬものを真実でないとみなしたがり、その証拠をすぐに見つけてくるのは、人情のつねである』とも書いてあった。

 世の中の物事の正否を突き詰めて考えると、どちらにでも転がれるから、本気を出せば全ての嫌いなことについて、なぜダメなのかを語れてしまうんだよね。
 そういう意味では、フェミニストの大半は赤子だから、SNSよりも揺りかごが適している。

 おやすみなさい、良い夢を。

 まとめると、草食系男子が増えた原因は、「女の汚れの可視化」と「バカの巨大化」のせいであると、断言出来る。

「女が男に奢らせるのは当たり前」の理由 美しさや若さは有限ゆえに、市場原理で高値がつくから

 財布を開く気がない子は、性格が悪いと断じられがちだけれど、実際のところは天使なんだよね。
 なぜなら、出来損ないの非モテにチャンスを与えてくれるからだ。

 女からすれば、タイプじゃない男なんてのは、腐敗した材木以下である。

男に奢らせる素人の女がいなければ、こじらせた非モテはプロとしか遊んで貰えなくなる

 Cランクのレンタル彼女でも、一時間3000円以上、別途、交通費が5000円くらい掛かる。
 俗受けする集金マシンみたいな女と遊ぶだけでも、多額の投資が必要だ。
 たとえば映画を視聴して、ご飯を食べるデートで五時間費やすのだとすれば、最低でもレンタル料金2万円+諸経費=3万円近く掛かってしまう。

 これでは単なるメイクマネーレディに、福沢諭吉を斡旋する業者になったみたいで、恋愛気分など到底味わえやしないだろう。

「はぁ~~い、今日はここまででぇ~~す。ありがとう。またね」とウィンクされながら、札束を抜かれる客。
 黄昏れに降り注ぐ寂寞感によって、孤独への恐れが病的なまでに膨らみ、「金さえあれば、金されあれば、あの子にまた会える……」という衝動が発生し、借金してでも貢ごうとするようになる。

 僕ら男はやはり、夢や希望に満ちたブルーシャングリラに突入したいのであって、決して、金銀財宝で構成されたプロ彼女と、じゃらじゃら金の落ちる音をさせながらイチャコラしたいんじゃない。

 プロ彼女なんて、勝てないパチンコ台と一緒だ。
 あわよくばの夢想をさせられ、意識が戻ると、財布がすっからかんになっている。
 一生懸命に用意した大枚をはたいて、悲惨な現実に直面するというマゾヒストリー。
 洗脳された豚になりきり、痛みに笑える強靱なメンタリティーの持ち主でなければ、プロと遊び続けると寿命が減ってゆく。

奢らせる女は、オーディションを開催してくれているのだ

 泥だらけのブタも1000匹集めたら、一匹くらいはイベリコ豚だったりする。

 もっと言うなれば女が男を選ぶ過程は、はじめて昆虫を食べるのと似ている。
「うわぁ、きめぇ」と幼虫を持ち上げて、鼻をつまみながら口内に叩き込んで見ると、「……おいしいわ」と美味に気づくような。
 つまり奢らせる女のデートは昆虫採集じみていて、ひとまず片っ端から捕獲してみて、それからじっくり品定めするという案配だ。

「二人きりで遊ぶことに応じてくれたなら脈があるよ」という言説がたまさか飛び交うけれども、それは十代でしか通用しない淡い夢物語である。
 たかだか一回のデートを重大なことだと認識しているのは、浮き世離れブタ、だけであり、そんな都合良き思想の中のブタとして生きている限り、光は射し込まない。

「女様、貴重なオーディションの場を設けて頂いて、ありがとうございます」と崇拝するべきだ。

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男は女に奢っているのではなく、恋愛指導料を支払っている

 この辺まで読むと女というのは、冷酷にムチを振るう拝金主義者に思えるだろうが、実態は正反対だ。
 どうしてかと言えば、非モテの練習台になってくれるからである。

 仮に女が奢らせない代わりに、絶対的に付き合いたい男としかデートしない社会になってしまったならば、先天的に恋愛センスのあるスマートなイケメンしか、デートが許されなくなってしまう。
 今なんて目じゃないほどに、残酷な格差が生まれる。

 であるから神の導きが働いているのかは分からないが、女は奢らせるということを名目に、物足りないシケメンとも遊ぶ選択を取ってくれるからこそ、僕ら男は育てて貰えるのだ。

 我々男は、女に搾取されているのではなく、奢るという題目を唱えながら指導料を支払っているのだ。
 マンツーマントレーニングをして頂いていると考えれば、たとえ初回から1万円を奪われたとしても、「安い買い物をさせて貰えた、ありがとう。またリピートするね」と笑顔の花を咲かせられる。

女は生まれつき大物女優であるから、プロの演技に金を出してしかるべし

 堂に入った恥じらいを見せつけてくれる。

 彼女たちが培ってきた演技力への対価として、ご飯や映画を奢ってあげるべきだ。

 女っていうのは基本的にクリエイターなんだよ。
 化粧もしかり、嘘泣きもしかり。

 疑う余地もない歩く創作物であり、これはディスリスペクト的な意味ではなくて、実際問題として、そういう女は男を喜ばせ、幸福へと誘う。
 ジョークでなしに、心から有り難いことをしてくれている。

 才能を持った子だと、リラックスした状態で緊張している演技をすることさえある。
 体の震えや赤面すらも操れる能力者が存在する。
 これはもはや、女業と呼ぶべきではないか。

女は、若さや可愛さという有限なものを提供している

 若くて可愛い女であれば、たとえ数発ビンタをカマしてきたり、タクシー代を掠め取ってきたりしても、帰り際まで若くて可愛いのであれば、100点である。
 生きているだけで社会貢献が出来ている。

 対照的に男は、男らしさを求められてしまうがために、女の考えている理想像から乖離した行動を取ってしまえば、一発でマイナス1万点を叩き出してしまいかねない。

 要するに、女が貴重な時間を投資してデートに来たのに、男は何一つ提供出来ず、そればかりか退屈という不快な気分にまでさせてしまうことがあるってことだ。
 だから少額でも奢って貰わないことには、割に合わない。
 厳密にいえば、慰謝料を請求したいところなのに、奢って貰うだけで許してあげるという優しさを見せてくれるのが、女なのだ。

 とりわけ若さと可愛さには消費期限があるのだから、美しいという状況に高値がつくのは、当然の市場原理である。

雑記1・女の「襲われたい願望」についての解説

 難しく儚い話しになるが、女は姿形ではなく、物語(関係性)に恋をしようとするからこそ、ブサイクとのデートにも応じる訳だが、抽象的な願望が強烈ゆえに、ちょっとしたことで、「この人、生理的に受け付けない……」という拒否反応が起きてしまう。

 女のお陰でデートして貰えて、女のせいでフラれるのが男なのだ

 酸いも甘いもぶち込まれ、ほろ苦い絶望に涙する。

 であるから女を口説き落とすには、一種の超常的な力が必要であり、それは具体的にどんなことかといえば、本能的に女が何を求めているかを嗅ぎ分ける、直感という名の瞬間の魔法のことである。
 知識ではなく、咄嗟に知性を発揮する瞬発力が必要なのだ。
 想像と行動を火花が散るような速度で、行わなくてはならない。

 これが出来ないならば、人並み以上に経済力があるなど武器を見つけないと、マンガチックに怒濤の如く100人にフラれ続けたりする。

 女の抽象的な願望は、モテない男からすれば悪夢なのだ。

「襲われたい願望」というのも、こうした抽象的な思考の最たるものである。

 これを分解して考えると、彼女たちの理想を忠実に具現化してくれる王子様と、夢想的な時間を過ごしたいということであり、言葉そのままに「襲われたい」ではなく、非日常へ不快感なく運び込んで貰いたいということである。
 快感も同時に感じる不快感というか、安心感のある襲撃を仕掛けられたいというか、明確な決め付けのように断言してしまうならば、理想の王子様に屈服したい、心身の全てを委ねたい気持ちの表れだ。

 雰囲気イケメンという存在がモテるのもそれゆえであり、男の場合は女を物理的に楽しみたいものだが、女はオーラに包み込まれるような遊び方をしたいと思っている。

 とどのつまり、物語(関係性)が女の都合に合わせてレベルアップして行くことがなによりも大切であり、それを実現させるには、男側に十分な知性や経験、自信から来る男らしさが絶対的に必要なのだ。
 そのため、稼げるようになったりして自己肯定感が凄まじくなった男は、歪んだ奇天烈な顔をしていても、運命が逆転したかのようにモテ始めたりする。
 ブロッコリーに似たカビみたいなバンドマンが、キャーキャーと黄色い声援を受けるのも、ライブハウスにて非現実という物語を、真っ先に女の脳内に注ぎ込んでしまうからだ。

 男は色気に弱く、女は物語に弱い。
 男は具体的に楽しみたい、女は抽象的に楽しみたい。

雑記2・「誠実に生きていれば、素敵な女性と巡り会えるよ!」というババアの戯言について

 男の人生はそんなに甘くない。
 女の考えている素敵な女性とは付き合えても、男の考えている素敵な女性と付き合うのは難しい。

 仮にババアの発言が現実化したとしても、財産狙いの女や、専業主婦になるための材料を探している女にしかモテない。
 そもそも、女が口にする素敵な女性というのは。内面の優れた存在のことを指していることが多いけれど、男は九割九分、外見的な理想しか持ち合わせちゃいない。

 言ってしまえば男がモテたい発言をするとき、頭に描いているのは、若くて可愛い子だ。
 ゆえに、女の応援メッセージみたいなのは微塵も役に立たない。
 内面を見てくれる女にではなく、男としての部分を直感で好きになってくれる、若くて可愛い女にモテたいというのが真意なのである。

 それだから、「頑張って生きていたらきっと良い女の子に出会えるよ! 女の子はある程度、年齢を重ねると中身を見るようになるから! ガンバっ!」というアドバイスを、悟り顔のババアにされると、「そうじゃねぇんだババア! 年齢を重ねてねぇ未熟な可愛い子にモテてぇんだよ! 成熟したババアとじゃなく、未熟な子と付き合って、二人で人生を切り開いていくような、これぞ青春の恋愛的なのがしてぇんだよ。スッ込んでろ! ババアとなら俺がジジイになっても付き合えんだろうが! 日本昔話かよ」と怒号を撒き散らしそうになってしまう。これが男の本性である。

雑記3・最近読んだ本

贈与論 (ちくま学芸文庫)

贈与論 (ちくま学芸文庫)

 

人、神への贈与は平和購入の目的をもつ

 こう書いてあったが、非モテの男が女をデートに誘うときもそうで、自分に自信がないと、奢ることで安心(平和)を買おうとするものだ。

 僕自身も女の子に対する抵抗がなかった時代は、なるべく高い店に連れて行こうとしていた。
 なぜならば、料理と空間で満足して貰えば、僕が女々しいミスを連発したとしても、許されると考えたからだ。

 つまり、金を出すことで安心(平和)を得ようとしたのである。

 ネット上には、奢らせる女を叩く音が響いているけれど、そんなものは感情の反転爆発というか、照れ隠しみたいなもの。
 大抵の男は過去に数え切れないくらい、奢ることによって楽して、安心(平和)を生じさせようとした黒歴史的な経験があるはずだ。

 僕もそうだけれど、偉そうに女を断罪している男も、それ以外の男も、女が考えているよりも、何十倍もモテない。

「女という生き物は、狡猾な演技をしている」とせせら笑う者がいるけれど、彼女たちはポジティブな劇を見せてくれている。
 反対に男は、コンプレックスを隠すために、ネガティブな想いから始まる演技をしている。

 僕が最近やっと分かったのは、「奢れよ」と自分から口にする女が叩かれやすいのは、先にそれを言われてしまうと、脆い安心(平和)しか手に入らなくなるからだ。
 端から奢ることがスタンダードになっていると、金を出すことの当たり前濃度が高いために、「この女はこれ以上のものを期待してくるんじゃないか……。緊張するな……」となってしまう。

 自主的に奢ることは、非モテにとって精神安定剤の役割を果たすということは間違いない。

雑記4・結婚する価値のある女について

 最後に小話を置いておくが、凄い可愛い癖に、無理矢理、割り勘に持ち込もうとしてくる女は、高確率で内面も良い子。僕の個人的統計上でいうと、看護師や歯科衛生士にこの手の子が多い。優しさというのは、余裕の産物であるから、可愛くてチヤホヤされている上に、自分で勉強して稼げるようになったことで、確たる自信も手に入れているという精神的に豊かな子は、大抵良い子。自己管理も出来るし、教養を深めてゆくし、心を綺麗にする行動が習慣化されているから、ババアになっても確実に可愛い。

【体験談】F欄大学に通って精神が崩壊し、一週間で退学(除籍)させられた話【底辺】

自己主張

僕はAO入試を利用して私立のF欄大学に入った

 自分の名前をきちんと書いて、足し算と引き算が出来る程度の学力があれば、どんな野蛮な人間でも入学可能な学校だった。
 僕の生まれ育った地域の中では、群を抜いて偏差値が低い、いや最下層だ。
 日本全体の中でも、下から数えた方が早い。

 職業に貴賎はないけれど、夜の店で働いて稼ぐ女だらけだったし、男もホストクラブから直行してくる者がいくらでもいた。
 まだ十代なのに、飲む打つ買うが常態化しているような、破天荒さがあった。
 講義中に五百円玉を積み上げ、「ドボン!」という声を上げながら賭けトランプをしている奴や、講師にバレないよう酒を飲むスリルを味わっている奴までいた。

 いかにもなチンピラの群れの中に放り込まれてしまったのだ。
 僕はどちらかといえば、おぼっちゃまくんとして育てられたから、猿の惑星に来たかのような印象を受けた。
 だから入学式は、暴力民族との異文化交流を強制されたようなもので、校舎裏に連れて行かれてカツアゲされるのではないか、という恐怖で胃がきりきりした。

 あまりの恐ろしさで精神的に衰弱し、オリエンテーションに参加出来なかった。
 その結果、入学早々、孤立……。

大学という場所にも関わらず、イジメが存在した

 僕の通っていた学校は、学部によるクラス分けが行われると、高校生活のように年がら年中、ほとんど同じメンバーで講義を受けなくてはならなかった。

 落ちこぼれが一堂に会すれば、トラブルが勃発するのは避けられない。
 社会生活をこじらせた人間を閉じ込める、暗澹たる閉鎖空間の誕生だ。
 たとえるならばブラジルの刑務所。

 教養はないけれど、腕っ節はあるいじめっ子気質の男がわんさかいた。
 Tシャツが張り裂けそうなくらい筋肉が肥大しているマッチョマン、思い通りにならないと暴れ出す肉ダルマ、人の心を傷つけることが生き甲斐なお洒落サイコパス番長。

「なんで教室内にギャングがいるんだよ……」と、身の毛がよだった。

 この僕は、しっぺをされただけでも救急車と弁護士と警察を呼ぶタイプだから、暴力は受けなかったものの、「18歳で童貞とか人生終わってね? 何が楽しくて生きているの? 俺がお前だったら、数秒でこの世から消えるわ」ということを耳打ちされたことがあった。
 それに対して愛想笑いを浮かべる僕を見て、意地汚く呵々大笑するチンピラたち。

 登校二日目にして、自尊心をカツアゲされてしまった。

「窓から飛び降りたら? 下は芝生だから足折れるだけじゃね? 物は試しだろ」
 数人で体を持ち上げられて、窓際に連れて行かれる男子もいた。
「嘘に決まってんだろ。なに泣きそうになってんの?」「ギャグだろ。ノリわりーな」「気分悪いなてめぇ、喧嘩売ってんのか? 上等じゃねぇか」「便所来い、タイマンしてやっからよ」
 こうした理不尽な絡みも目撃した。

 彼らのいかれた論理を説明すると、「退屈そうにしている男に絡んでやったのに、ぶすっとしてやがる。許せねぇ。正義の鉄槌で罰してやる」となる。

 もはや肉食獣がうろつく自然界みたいなもので、狩るか狩られるか、弱肉強食の原理が急速度で働く異様な空間であった。

 自宅に帰ると僕は、すぐさまスタンガンや催涙スプレー、メリケンが安く売っているサイトにアクセスしたくらいだ。
 もちろんそれらを購入してリアルファイトを持ちかける度胸などなかった訳だが、そんな過激な防御行動を取ろうとするくらいに、戦々恐々としていた。

 なによりも怖いのは、彼らに、ひとひらの悪意もなかったということだ。
 端から見れば劣悪なコミュニケーションだけれど、これこそが彼らなりの挨拶だったのだ。

 究極に素直な人間が寄り集まっていたのである。

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対人恐怖症、視線恐怖症、金縛りに苦しみ始める

 入学して三日目くらいに、高校生の頃から好きだった子にフラれてしまった。
 一通目から1000文字以上のメールを送って気味悪がられ、返信がこなくなったから、謝罪のために2000文字の追加送信を行った。
 フラれるまでに、概算およそ1万文字の文章を送りつけた。

 最低のキャンパスライフを送ることになり、あまつさえ初恋に破れるという、散々な日々。

 冷たくなった心が、氷裂紋様のようにひび割れた。

 大学へ通うことが苦でしかなくなった。
 徒歩30分、バス30分、電車1時間半。
 乗り物の待ち時間も含めるなら、片道3時間近く掛かる。

 登校途中に気づけば、スーパーの個室トイレに座り込んで、目を瞑っていたこともあった。
 狭い箱の中だけが、安らぎを提供してくれた。
 当時は家族関係にも亀裂が入っていたから、どこにいても落ち着けなかった。
 だからこそ誰にも知られず、まるでかくれんぼをするように身を縮めて、個室トイレの中で現実逃避を行った。

次第に、夜も寝られなくなった

 家族が寝静まった夜中、物音一つせずにしーんとしている室内。
 静けさが、無音が、騒音に思えた。

 ぅぅぁぁ、ぅぅぁぁ、と呼吸なのか、悲鳴なのか、自分ですら判断のつかない声を出して、頭と両手を小刻みに意味もなく揺らし続けた。

 夜に布団に入って、外が明るくなったくらいにやっと眠れるという毎日。
 そして決まってみる悪夢。
 真っ黒な室内にいて、目の前に扉があるのに開かない。
 なぜか呼吸も出来ず、体もまったく動かなくなってしまう。

 途方に暮れている僕を更に追い詰めるように、ガシャーンガシャーンっという人の心を破壊するような楽器音が響きはじめて、「うるさい……うるさい……うるさい。あぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」と喚き散らそうとするも、声が出ない。

 気づくと夢から覚めているのだけれど、金縛り状態で動けない。
 さらに自分が小さくなってゆく感覚、不思議の国のアリス症候群ともいうが、敷き布団の中心に奈落へ続くワームホールが開いて、そこへゆっくりと吸い込まれているような感覚に囚われてしまう。

朝起きることすら、ままならなくなった

 体が布団に縫い付けられているかのように、身動きが取れない。
 目覚ましが鳴っているのに、金縛りは一向に解けない。

「かごめ……かごめ……籠の中の鳥は……いついつ出やる……」

 この童謡のように、僕自身が過去に見聞きした怖い話しが、途切れ途切れの幻聴となって、僕を苦しめた。

 寝られなくて起きられない。
 自己管理が不可能になった。

 常に過緊張状態で、夢と現実の境が分からなくなっていた。
 脳が正常に回転しなくなって、物事の認識が不可能になった。

「あれ? 今自分は何をやっているんだろう?」

 記憶が連続しなくなっていた。
 急に未来に飛ばされてしまったような感覚。
 なんだろうこれ……。
 特別な何かがある訳でもないのに、ただならぬ気配(背後からの殺意)を感じるようになってしまった。

コミュニケーション障害を持ち始めた

「ピピピくんおはようございます」と挨拶をされても、「え……?」と状況が掴めなくなる。

 人生に対する恐怖感で、脳が誤作動を起こしていたのだ。
 深呼吸をして受け入れ準備を整えなくては、会話の方法を思い出せない。

 後ろから肩を叩かれて、挨拶されたりなんかしたら、「殺される……!」と身構えたことすらあった。

 たった一回の会話が、何十時間も続く拷問のように思えた。

 体が冷え切った感覚と、「自分のような劣等生が平気で街を歩いて良いのか……」という恥ずかしさで燃えるような感覚が、両立し、猛威を振るっていた。
 燃え上がる寒気。
 全ての爪が捲れ上がるように、猛烈に指先が冷えていった。
 自律神経を失調していたのだと思うが、手先がぴくぴくと震えていた。

 そんな無様な姿を他人に見られたくないから、その辺に落ちている小石や、自宅の鍵を手の平に置いて握り込み、痛みを発生させることで冷静さを取り戻そうとした。
 血を捧げることで、神に許しを請おうとしたのだ。
 人知を超えた者に、両手を合わせて救いを求めるくらい、僕は病んでいた。

絶大なる人間不信が訪れた

 それも他人がどうのこうのよりも、己自身を呪うようなものだった。

 僕の歩き方は、みんなと比べておかしいんじゃないか……?
 僕の喋り方は、みんなと比べておかしいんじゃないか……?
 僕の生き方は、みんなと比べておかしいんじゃないか……?

 自分がただ立っているだけ、ただ呼吸しているだけで、得体の知れない恐怖に襲われる。

 ますます記憶があべこべになってしまい、「自分はなぜ外にいるのか、僕は本当に高校を卒業したのか? 僕は誰なんだ?」という疑問で壊れそうになった。
 何もしていないのに呼吸が荒くなり、何かに追い立てられているような気分になっていた。

 音にも敏感になった。
 学生食堂で食べるのが苦痛だった。
 かちゃかちゃっという食器のぶつかる甲高い音、くちゃりくちゃり、ぐびぐびぐびっという咀嚼音が、不快でしょうがなかった。
 深い息を吸って吐いて、目を瞑りながらご飯を口に運ぶのだが、まったく味がしなくなった。

 人生から色味が失われた。

 そうして僕は、息を引き取ったように動かなくなった――

雑記・最近読んだ本

影響力の武器 戦略編: 小さな工夫が生み出す大きな効果

影響力の武器 戦略編: 小さな工夫が生み出す大きな効果

  • 作者: スティーブ・J.マーティン,ノア・J.ゴールドスタイン,ロバート・B.チャルディーニ,Steve J. Martin,Noah J. Goldstein,Robert B. Cialdini,安藤清志,曽根寛樹
  • 出版社/メーカー: 誠信書房
  • 発売日: 2016/07/15
  • メディア: 単行本
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ほかの人が何らかの社会規範を破ったのを見た人は、自分でもその社会規範を破りがちになるだけでなく、その社会規範と関連した別の規範を破る可能性までもが高まる。

 こう書いてあるように、僕の大学でもこうした非道徳の競争とでも呼ぶべき現象が起きていた。

「あの人が10レベルの規則を破った。じゃあわたしは11レベルの規則を破ろう」

 こんな流れでもって、みんなで度を超えた羽目を外すようになる。

 集団がギャング化してゆくのだ。

 大学という、高校よりかは自由の利く場所に、本能を重視する荒くれ者が集結してしまえば、暴力的な化学反応が起きるのも無理はない。

 冗談とか一切抜きに、Fラン大学には高性能監視カメラや、天井から電流を流せるような遠隔スタンガンみたいなものを常設しておく必要性があると思った。

雑記2・昨日の記事について

pipipipipi-www.hatenablog.com こちらは映画やドラマとの差についてなど、言及が足りていない部分が多いという意見がちらほらあったから、もう少し考えが深まったら(いつになるか分からないが)、リベンジ記事を出そうと思う。

 僕がブログを書く理由として、思考力や表現力、語彙力を高めたいのと、鬱憤を晴らしたいっていうのがある訳で、やっぱり自分の中だけでも良いからクリティカルな文章を書けたという感覚を持てるのが大事な訳で、しっくりこなかった、読者が疑問を持ったままで終わってしまったという記事に関しては、第二弾、第三弾をいずれ出して、自他共にフラストレーションを解消出来るように創意工夫を重ねて行こうと思う。

 たとえ間違った方向にでも良いから、深度のある記事を書けるようにしたい。

 世の中には明らかに頭のおかしい文章だけれど、その人なりの深さを感じるから攻撃的なくらいの意味を持った作品というのがある訳で、そういうものを沢山書いて行きたい。

なぜ引きこもりニートは、「アニメにハマるのか?」についての考察

自己主張

 年末に観た番組の中で、元2ch管理人のひろゆきが、「なんで引きこもりって、みんなアニメにハマるの?」という疑問を口走っていた。

 今回はこれについて、約4年間に渡ってまともに働かず、年がら年中、日がな一日、アニメを見続けていた経験のある元プロ中毒者の僕が、解説しようと思う。

人生の物語を失った者へ、物語を補給してくれるという機能

 引きこもり生活というのはある意味、時の止まった次元で生きているようなもので、起承転結どころか、ストーリー性が欠落している。
 虚無感のみが発生し続け、0が0になり、その0がまた0になるような、意味を感じられない時間だけが過ぎてゆく。

 新しい一日は訪れるけれども、新しい自分には出会えない。

 こうした絶望につける薬が、物語を補完してくれるアニメなのである。

 堕落というのは確かに楽なのだけれど、そこには恐怖がセットされている。
 どんなに極まった怠け者であろうが、ただの一つも自分の人生が前に進んでいないという事実には、耐えられないものだ。
 日常に動きが必要――それは何かといえば、今この瞬間の自分が意味のあることをしているという感覚である。
 もっといえば、引き続く物語への渇望ということだ。

 止まっている生き方というのは、死を連想させるから、本能的にそれに抗おうとして、なんらかの進展を求めようとするのだと思われる。

 人は、物語なしで生きていけない。
 アニメは、己の中に物語を見出せなくなった悲惨な人々に、擬似的な成長感覚や人生の起伏を届けてくれる。

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ではなぜ、物語を求める先がアニメなのか

 極端にいうとスタンフォード監獄実験みたいなもので、人は自分の肩書きや地位に沿ったような行動を取ってしまいがちであり、引きこもりニート=アニオタっぽい、という集合知を元に、知らず知らずのうちにオタク趣味を持つようになるのだ。

 TVなんかでも、オタクは○○だという分かりやすいイメージを築き上げて放送しているから、日本で一般的な生き方をしている限りは、その影響下から逃れられない。
 そのため世間に蔓延する引きこもりニートのイメージそのままに、動いてしまうようになる。
 ステレオタイプな世間の操り人形と化すという訳だ。

 そしてなにより、ジャパニーズアニメーションというコンテンツは、日本人の感性に合わせて制作されているのだから、最初からハマりやすく出来ている。
 引きこもりニートになったからハマるというよりも、自由な時間を獲得した人が真剣に観たから、作品に備わっている楽しくなってしまう罠にまんまと引っ掛かって抜け出せなくなるのだ。

 この辺は、『魔法少女まどか マギカ』が社会現象になったときにも証明されたと思うけれど、たとえば芸人の矢作が、「最初、絵が凄い苦手だったけれど、凄いよこのアニメ!」と大絶賛していたように、日本のアニメは本気で視聴するとハマってしまうカラクリが組み込まれている。

 身も蓋もない言い方をすれば、引きこもりニートがアニメにハマるのは、日本人の感性に合わせた作品を、腰を据えて観たのだから当然ということになる。

 集合知に後押しされて真剣に視聴したから、というだけの単純なものだ。
 複雑怪奇な心理現象が発生している訳でもない。
 引きこもりニートも所詮は、単なる有象無象の人間なのだ。

 更に付け足すと、アニメのようにつべこべ非難されやすいコンテンツは、訴求力が尋常でなくある。

 なぜならば、ぐれたガキとタバコの関係みたいなもので、人の背徳的な好奇心を膨らませるからだ。
 無職で昼間に起きるような出来損ないが、アニメをダラダラと視聴する。
 これって、未成年が違法なアイテムに手を伸ばすような後ろめたさがある訳だ。

 やっちゃダメだと思い込むほどに、自分を止められなくなる現象が発生する。
 不健康で不純な気持ちが浮上し、視聴せずにはいられなくなる。

 アニメ業界の拡大に、引きこもりニートの罪悪感が幾分か役に立ったことは、間違いないだろう。

 引きこもりニートに幸あれ。

追記・なぜ映画やドラマでなく、アニメなのかについて

 アニメというのは、省エネルギーで楽しめるコンテンツだからだ。

 テンプレ化されたストーリーが展開するから、脳に負担が掛からず、ただ座って観ていられる。
 集中して見なくとも、現実をそっちのけにした時間の過ごし方が出来る。
 心的エネルギーを節約しつつ、楽な現実逃避が可能。

 人間は低きに流れるものであり、活字界にラノベが参戦して掻き回せたのだって、楽に物語を飲み込みたいという、怠惰な大衆の想いを実現させたからだ。
 それでもまだ足りないということで小説家になろう作品が登場し、テンプレの共有によって、ますます頭を使わなくとも、時間の流れを体感出来るようになった。

 こうした人間の楽をしたい願望が、アニメにハマるということに繋がる。

 一話は大抵、数十分という区切りがあり、重さを感じずに済む。
 学校の授業の三分の一くらいの時間で見られる。

 アニメほど金が掛からず、怠惰な人間に適したコンテンツはない。

 しかも分かりやすいテンプレが存在することにより、感想の共有が容易であるから、ネットにて他者と繋がる材料にしやすい。
 ネットの普及により、シェアの時代になっているから、インプットとアウトプットを楽に行わせることが可能なコンテンツは、引きこもりニートを惹き付ける。

 極限まで楽をして楽しみたいという、引きこもりニートの夢を叶えるコンテンツ、それがアニメなのだ。

追記2

 アニメは1話、2話と数をこなして行くからこそ、物語を享受している感覚が強まる。
 視聴した話数が増えるだけでも引きこもりニートは、ある一日に対して意味があったと思い込みやすくなるのだ。

 そして最も重要な点として、引きこもりニートがアニメにハマり込む理由には、自己陶酔が関係しているのではないか。

 言うなれば自傷行為に近いと思うのだけれど、「どうしようもない僕が、美少女が出現したり、中二病的だったりするアニメを延々と見て、もっとどうしようもなくなってやる」という自己破壊的なハマリ方が存在する。

 ダメ人間だからこそ、よりダメな部分を強化して、己に究極的に酔っ払うということだ。
 オタク系の趣味にハマる引きこもりニートは、こういうプロセスを経ていることが多いと思われる。
 傷付きたくない人が、あえて傷を付けられる場所へ自ら向かうという共依存にも近いような、自己犠牲的なスタートから始まるアニメ鑑賞。
 極論に聞こえてしまうかもしれないけれど、多かれ少なかれ、自意識の異常性と共にオタク趣味は走り出す、というところがあるんじゃないか。
 少なくとも僕はそうであった。

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